CULTURE

ソウル今便り6「韓国で“北”を体験する」

2023/02/05

文&写真 黒田 勝弘(アジア言語学科韓国語専攻客員教授)

筆者の顔写真

日本人からよく聞かれる質問に「朝鮮半島の北と南の言葉は同じですか?」というのがあります。答えはもちろんイエスだが、ただどこの国でも方言や“地方なまり”があるように、北朝鮮の人びとの言葉にはアクセントなど違いがあって、聞けばすぐそれと分かる。昔は朝鮮戦争(1950-53年)の前後に北から避難してきた人びとがソウルにもたくさんいたため、日常的にいわゆる”北なまり“をよく耳にしたものです。街のお店にも北から来た人たちが始めたのが結構あって、北の地名を屋号にした「平壌」「南浦」「元山」「西北「新義州」「宣川」…などといった店に行けば北の言葉が聞けた。

ソウル?武橋洞の北ルーツの老舗「ナ?ポ(南浦)麵屋」

しかし時の経過とともにそうした古い世代の北出身者は少なくなり、その子孫たちも韓国育ちなのではっきりした”北なまり“はあまり耳にしなくなりました。筆者のような古くからのコリア?ウオッチャーにとってはこれはどこか寂しく、たまに耳にすると懐かしい感じさえします。

いわゆる”北なまり“の特徴をひとことで言うと、語尾をぐっと押さえるようなどこか強い言い方なので、全体としてはきつい感じがする。よく北朝鮮のテレビニュースに登場する女性アナウンサーの言葉などその典型ですが、あれは本来の”なまり“に政治的宣伝口調が加わるのでいっそうきつい感じになるんですね。

筆者がソウルで耳にした”北なまり“で印象的だったのは、例の大韓航空機爆破テロ事件(1987年)の北朝鮮工作員だった金賢姫(キム?ヒョニ)の言葉です。

彼女は平壌(ピョンヤン)外国語大学卒でテロ工作員に選抜され、北朝鮮に拉致されてきた日本人(李恩恵こと田口八重子さん)から日本語教育を受けたことで知られる。日本人「蜂谷真由美」になりすまし犯行に及んだものの、中東で逃走途中に逮捕されました。韓国で死刑判決を受けた後、事件の”生き証人“として特赦され、以来、韓国で生活している。事件当時は25歳で、その後、韓国で35年暮らし昨年、60歳になった。結果的に人生の半分以上を韓国で過ごしたことになります。筆者は事件後の記者会見や単独インタビューを含めこれまで何回も会っているが、実は彼女とは言葉をめぐるエピソードがあるんですね。

外国人記者団との最初の公式記者会見の際、「あなたは日本語がうまいと聞いている。以下の質問には日本語で答えてほしい」と質問したのだ。これに対し彼女は「あのう、それはですね…」などとこなれた日本語で流暢に答え、日本人記者を驚かせた。しかし今回、あえて紹介したいと思った言葉の話というのはこのことではなく、北朝鮮出身の彼女の“北なまり”のことです。昨年秋、久しぶりに会って昼食をともにしたのですが、その”北なまり“が実に印象的でした。

60歳になった元?北朝鮮工作員の金賢姫氏と筆者

なまりというかアクセントですね。60歳になった女性の会話ですからソフトな口調だけれど、語尾を上げてものをいうような北朝鮮風のアクセントはそのままでした。北よりはるかに長い期間、南―韓国で過ごしながら今なお北のアクセントが残っているんです。実に懐かしい感じでした。人生初期の言語体験がやはり影響が強いということでしょうか。筆者も大学生までは関西で、その後、東京で就職し韓国生活も長くなりましたが、今なお“関西なまり”が残っているのと同じなんですね。

”北なまり“ということでは、実は今も耳を澄ませば韓国社会で結構、耳に入ってきます。いわゆる脱北者の言葉がそうですが、彼らの数は全体としてはそれほど多くないので、彼らから直接耳にすることはあまりない。ただ、脱北者の美女たちを集めた北朝鮮事情についてのトークショーをテレビがやっていて、北の美女の”北なまり“を気軽に楽しめますね。また先年、英国経由で亡命してきた北朝鮮の元外交官が国会議員になっていて、彼の”北なまり“もテレビニュースなどでよくよく耳にする。

それよりももっと一般的で日常よく耳にするのは、中国から出稼ぎにきているいわゆる朝鮮族の人たちの“北なまり”です。中国東北の中朝国境地帯には朝鮮族自治州があり、東北3省には彼らがたくさん住んでいて韓国に働きにきている。男性は工場や建設現場が多いようですが女性はもっぱらお店の働き手になっています。その結果、彼らを顧客とする食堂など商店もたくさん生まれ、ソウルにはそうした朝鮮族系の“チャイナタウン”があちこちに出現している。そうした現場で飛び交っているのが“北なまり”なんですね。

ソウル?大林洞の朝鮮族によるチャイナタウン

中国の朝鮮族自治州をはじめ東北3省の朝鮮族の人びとの言葉は、地理的および政治的関係から北朝鮮の影響が強いので”北なまり”になっている。その彼らがたくさん韓国にやってきてお店などで働いていますから、その気になればいつでも耳にすることができるんですね。

そしてもうひとつ面白いのは、彼らは中国語ができて日常的には漢字を使っています。そのため彼らの”チャイナタウン”は漢字だらけです。漢字を使わなくなった韓国ではまったく異質な風景で、実にエキゾチックだ。これまでは韓国の中華料理はまずいというのが在韓外国人たちの定評だったのですが、ここにきて朝鮮族系経由の中華料理がソウルで急速に広がっており、新たな”味の風景”になっている。ソウルの楽しみ方がまた増えた感じですね。